映画バードマンは鏡だった。

「うわっ、イエローだ」どうやら設定の問題ではないらしい。実は最近、Blu-rayをドライブ買った。Macで映画を観るためだ。そして再生できるプレーヤーも準備した。あとは観るだけだった。その記念すべき第一号に選んだのが「バードマン」だ。しかし、観はじめて違和感に気づいた。字幕が黄色いのだ。Amazonの廉価版のBlu-rayだから黄色いのかと邪推をしてみたが、さすがにAmazonでも字幕までコーポレートカラーにはしないだろう。そのまま見続けようした。うーん気になる。調べてみよう。ググってみたら疑問は解決した。どうやらはじめからイエローで作られているらしい。監督の指示だとググったサイトでは説明していた。これでやっと映画に集中できる。

“バードマン”は世界中で愛されているヒーローだった。そのバードマン役でスターになったリーガンだが、そのヒット作に見舞われずにいた。再起をかけ自ら脚色したレーモンド・カーバーの小説でブロードウェイで舞台に上がろうとしている。このリーガンを演じるのは、かつて“バッドマン”を演じたマイケル・キートンだ。

アシスタントで雇った実の娘サムとはなかなかうまくいかない。公演封切りが近づいているのに、共演の役者は自分の期待に応えるような演技ができず苛立ちが募っていく。準備はうまく進まず、役者も決まらない。苛立ちの矛先は、自分以外の外へ向けられる。そう、彼にとって問題なのは自分ではなく自分以外の人間たちだ。

うまくいかないことは周りのせいで、自分に非はない。あれ? ちょっと待って。これって、普段自分がよくやっていることだ。でも、実際このようなことを自分がやっている最中は、なかなか気づかないものだ。でもこうやって映画で客観的に観せられるとリーガンの自我がよく見える。

それからリーガンの自我にとって重要なのは、世間から評価されること再び有名になることだ。世間からの評価をお恐れていることが手に取るようにわかる。これもまさに自分が恐れていることだ。そして、次のような言葉が繰り返しリーガンに投げかけられる。「お前は何者でもない」「誰もあんたをみてない」「パパは存在していない」。彼の自我は満たされるどころか、存在を否定されることを言われる。唯一、存在価値を証明するための肝心な劇は、試写会でトラブルが続き全く思うようにならない。本人位とっては自我崩壊の危機的状況だ。

でも鑑賞者である自分はあることに気づく。ああ、これはまさに自分がやっていることを客観的に見せつけられている。まるで鏡のように。映画はリーガンを通じて何度も何度も問いかけてくる。「お前は何者でもない」と。そう、私は何者でもないはずなんだ。評価をきにして、他人の目を気にして、それがなんになる? しかし、一方で試写会でアクシデントが起こりリーガンの自我がボロボロと崩れていくごとに劇の評価は上がっていくようにも思える。

リーガンの危機、劇の評価、ストーリーは続いていく。あたかもワンカットでとっているかのようなカメラワークで、鑑賞者を釘付けにする技術は脱帽もの。意味深なラストシーン。ああ、なんか最後はすごくいい気分になれる映画だった。

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