うちの風呂場では、ありえないことが起こっています。私と妻、娘2人の4人家族なのに、シャンプーとコンディショナーのセットが、3セットもあるのです。ありえませんよね? 「えっ? それのどこがありえないことなの? 普通でしょ」と、思ったあなた。自分の“普通”という罠にはまってしまっています。そして、私もはまっています。私からすればこれは普通じゃないのです。なぜなら、私は石鹸ひとつで全身を洗ってしまうからです。効率化を追求した結果そうなりました。40歳を過ぎて、髪のキューティクルもへったくれもない私にとって、シャンプーやコンディショナーなど、些細な誤差でしかありません。むしろ石鹸のほうが、頭皮にやさしいとさえ思っています。それから、洗う髪の面積も年々効率化されて、といっても自然現象ですが、縮小傾向にありますので、石鹸で十分なのです。こんな私の“普通”は、私が生まれ落ちた家族からきています。私は、親父とお袋、弟が2人の家庭で育ちました。実家の風呂場の床は丸いタイル張りで、体を洗うものは石鹸とメリットシャンプーとリンスがあっただけです。もちろん家族共有です。だから、家庭の風呂場のアメニティーは、基本ワンセットが普通だと思い込んでおりました。
しかし、結婚をして突然中学生の娘が2人できると、今まで石鹸がひとつしかなかった風呂場に、ありあえないことが起こりはじめたのです。なんとシャンプーとリンスが陳列され始めました。しかもパック入りの詰め替え用のやつらまで並んでいます。それから、洗顔剤とか、他にもわたしには何に使うのかわからないチューブ入りのやつとか、ポンプ式のやつとか、いろいろ。ここは、マツモトキヨシかココカラファインの売り場かってな具合です。体を洗うゴシゴシタオルだって、何種類もあります。ゴシゴシタオルだけではなく、フワフワっとした、ゴシゴシタオルを丸く束ねたようなやつもあります。そんなので、どうやって背中を洗うのでしょうか? 試しに使ってみましたが、背中の真ん中まで洗おうとして肩の関節が痛くなりました。とても使い勝手がいいとはいえません。女性は関節が柔らかいから、背中の真ん中まで簡単に洗えてしまうのでしょうか? いままで、石鹸1個と、ゴシゴシタオル1枚しかなかった風呂場が、薬局の陳列棚のようににぎやかになること。これが結婚というやつなんです。無理やり開国を迫られたわけではありませんが、まるで横須賀にペリーさんがやってきたかのような異文化の衝撃です。結婚というのは、ある意味異文化を取り入れていく文明開化のようなものではないでしょうか。それまで通用していた自分の中の“普通”というものは通用しなくなるのです。昨日まで普通だと思っていたお風呂場に、普通ではないものが流れ込んできます。でもそれは、妻と娘たちにとっては普通のことです。むしろ、彼女たちにとっては「石鹸1個? 信じられない!」的な異文化のはずです。こういう、自分とは違う習慣や文化、その他もろもろの違いを受け入れていくことを、最近巷ではダイバーシティと呼ぶそうです。日本語にすると多様性と訳されます。
皆さんは、ダイバーシティと聞いてどのようなイメージを思い浮かべますか? 私はこの言葉を聞くとまず思い浮かべるのはお台場です。あー、まさか? と思った人、正解です。ダイバーシティ東京です。別にダジャレではありません。私の知識のレベルでは、ダイバーティといえば、イコールお台場のショッピングモールの名前です。私にとってはその程度の認識でしかありませんでした。
つーわけで、このダイバーシティ(多様性)についてググッてみました。そうすると、このダイバーシティにはいろいろな範疇があるようです。人種、民族、性別、宗教、国籍など。わりとわかりやすいといいますか、見た目にも判断がつきやすいもの。それから同じダイバーシティでも、見た目にわかりづらいものもあるそうで、たとえば価値観、知識、職種、性自認などです。で、このダイバーシティが最近といいますか、これから重要になってくるらしいのです。なぜか? 世界がより近く、そして狭くなってきているからです。そういわれると、身近で思い当たる節があります。例えばこんなことです。私が勤める会社は恵比寿にありまして、毎朝80%くらいの確立で恵比寿駅の東口にあるマクドナルドでコーヒーを買います。ここ2年くらいでしょうか、肌の色も様々な外国人の店員さんが増えました。オーダーを受けるレジ係は、ほぼ海外の方々です。みなさん日本語が上手なので、やりとりに困ることはありませんが、これも身近な生活に入ってきているダイバーシティのひとつです。それから、先日浜松町にある“ニッポンまぐろ漁業団”という居酒屋へ行った時のことです。私たちのテーブルを担当してくれたのは、インドとかパキスタンの出身とおぼしき男の子でした。はじめ私は、彼がかぶっていたキャップの意味に気づけませんでした。しばらくして目が慣れてくるとそのキャップの意味がわかりました。プレートのついたキャップとエプロン姿、店の内装から、あっと気づいたのです。そうか、これは魚屋さんの格好だったんだと。もう、現実の方が多様性すぎて私の意識がついていけていなかったようです。私の中にある常識が邪魔をしていようです。自分の中の“普通”と違うことが起こったとき、人間って無意識に、それを受け入れるのを拒否しようとしたり、排除しようとしたりする傾向があるようです。こういう身近なところでも、国際化が進んでいます。だからダイバーシティといいますか、多様性を受け入れていくことは大事なことになりそうです。そしてそれは、社会的な広い意味でもそうですが、家庭の中でも同じことが言えるのではないでしょうか?
確か20年ほど前だったとおもいます。TVでやっていた芸能人の婚約会見で、婚約の理由をリポーターに聞かれた芸能人がこう応えました。「価値観が一緒だったんです……」と。しかし、しばらくしてからその方たちは離婚してしまいました。その離婚会見では、こう答えておりました。「価値観が違いました……」と。多分両方とも間違ったことは言っていないと思うのです。なんでそのような食い違いが出てきてしまうのか。それは、結婚する前に認識できている価値観と、認識できていない価値観があるからだと思います。結婚する前って、好きな音楽が同じとか、趣味が同じとか、比較的表面的な部分の一致しか見ることができません。それが結婚をするとどういうことが起こるのかというと、焼き芋の皮は食べるのがいいとか食べないものだとか、部屋のドアは閉める派だとか開けとく派だとか、そりゃもう瑣末なものから重要なものまで、次から次へと違いが発覚してくるのです。言ってみれば家庭内異文化交流です。だから、ダイバーシティだからといってLGBTだとか、あまり身近でないことを無理して考える必要もないのです。本質は、まず違いがあることを認識して、そこからどうふうに歩み寄りながら、互いの違いへの理解を深めていくかということです。ちなみにLGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をとったものです。
ところで、ダイバーシティって、どちらかといえば自分はマジョリティー(多数派)で、マイノリティー(少数派)の方々を受け入れていくと思う人の方が多いのではないでしょうか? 実はそんなこともないのです。なぜなら、マジョリティーだと思っていたら、いつの間にかマイノリティーになっていることだってありえるからです。おそらくこれは殆どすべての人に当てはまります。それは加齢です。最近、肩を回すとキャッチボールをした後でもないのに、肩が痛むことがあります。それを、友人に話したら「それ、四十肩だよ」ってサクッと言われショックを受けました。つまり、人は誰しも身体の自由が利かなくなっていくという意味で、マイノリティーになっていくのです。想像したくありませんが、80歳になった自分の身体は、身体能力や柔軟性など、確実に今の半分以下になっているはずです。だから、実は私たちは潜在的なマイノリティーでもあるのです。もうひとつおまけに、ショックなことをお話しますと、先日地下鉄の駅のホームを歩いていた時のことです。ふと加齢臭がしたので回りを見回すと、なんと私以外に誰もいなかったのです。えーマジか! 正直、四十肩以上のショックを受けました。ある意味マイノリティーの仲間入りです。
私たちってどうしても、自分の“普通”で世の中を見てしまいがちです。その普通は、長い年月をかけて徐々に身についてしまったため、自分だけの“普通”のはずなのに、世の中の“普通”だと勘違いを起こしてしまうからです。もしくは、多くの人が“普通”だと思っているから、少数派の“普通”は、普通じゃないのだという勘違いを起こします。でも、よく観てみると自分の家の風呂場の中にすら“普通”なんて無いのです。結局、風呂場の話へ戻ってきてしましたが、ダイバーシティって、まずは違いがあるというポジションに立つことなんじゃないかなと、風呂場マイノリティーの立場から考えるのでした。