気づいたら、そうなっていたのです。知らず知らずのうちに。例えば、クラスの右斜め前の席に座っている娘のことを、いつの間にか好きになってしまっていた、という感じに似ているのだと思います。そして、もう毎日毎日その娘のことを考えない日はないというように。私にとって大福とは、考えなくてはいられないものになっていました。
あれは確か東西線の東陽町駅の近くにある東陽公園でした。仕事でお客さん先へ出向いた時に、もう我慢ができなくなってしまい、吉田屋さんの豆大福と塩大福を一つずつ買いました。そして店の裏側にあるその公園でムシャムシャと食べたのです。小ぶりではありましたが、その餅の伸び具合と、まろやかな甘さの餡子は、絶妙なコンビネーションを奏でていました。そしてその時思ったのは、「あぁ、大福って素敵だぁ」ということでした。
私の楽しみは、毎日大福を食べることです。自宅から職場までの通勤で、乗り換えに渋谷駅を経由します。仕事帰りにJR山手線をおりてから地下鉄の田園都市線まで下りる途中、東急デパートの地下街をとおりにけることが出来ます。いわゆるデパチカには、必ずといっていいほど和菓子屋さんのテナントが入っています。すると、とりあえず大福を買って帰ろうということになってしまいます。だから私の日課は、東急デパチカの「梅園」に立ち寄ることです。梅園の本店は1854年創業で、浅草寺の別院・梅園院の一隅に茶屋をひらいたのが始まりなのだとか。
デパチカで和菓子を買う人は、お土産用に買う人が大半です。だからみなさん、5個とか10個という単位で買っていきます。そこへ水をさすように「すみません、1個ください」と言って大福を買いにくる客が、私なのです。しかし、そこはお店の人も心得たもので、「そのままで大丈夫ですか?」と返してくれます。私の帰りが遅くなり、豆大福が売切れてしまった時などは、こちらが聞くより先に「すみません、今日は終わってしまいました。」と、教えてくれるようになりました。おそらく梅園のパートさん達の中では、私のことを「1個の人」と呼んでいるに違いありません。
ところで、東京にはおいしい大福を売る店が結構沢山あります。その中で東京の三大大福といえば、群林堂、松島屋、瑞穂さんのことを指します。いつ行っても行列ができていて午後早くには売切れています。護国寺にある群林堂は、通りに面した、ほぼカウンターだけのお店。店頭は、たたみ二畳を横に並べたくらいの広さしかありません。暖簾をくぐるとすぐにカウンターです。そのカウンター越しに、店員さんがお客さんの注文を聞き、手際よく包みに包んでさばいていきます。群林堂の豆大福は、大福を包む包み紙がしっとりするくらい、瑞々しさがある餅が特徴です。その瑞々しさを保つために、たっぷりとまぶされた片栗粉は、食べる時に牡丹雪のように音もなくホロホロと舞い落ちます。それを口にほおばると、餅の中に沢山練りこまれた、赤エンドウ豆が舌にゴツゴツ当たります。餡子を包む餅は、薄いのにしっかりした歯ごたえがあり、あとから静かに主張してくる米の香りに、わりと野趣を感じます。また、甘さを控えた艶やかな餡子は、ゴツゴツした赤エンドウと、口の中でからまったところで、別次元の味を楽しませてくれます。あくまでも主役は餡子に譲りながら、半沢直樹の吉田鋼太郎のような、味のある脇役を演じる餅の存在がとても好きです。
それから、松島屋さんも通りに面した路面店で、店先で注文を聞き、サバサバとお客さんを捌いていきます。でも行列が絶えないわりには、意外と普通な印象なのです。一見するとさほど特徴もないように思われますが、それはすごくど真ん中な大福だからです。これぞ庶民の大福といった感じでしょうか。ある意味、特徴を出さずに美味しいというのは一番難しいいことかもしれません。餅はけっこう薄目で、隠し味程度に塩気を感じます。餡子は水分が抑えられ、やや引きしまった食感。口に含むと、どこからか昔懐かしい香りが漂ってきます。実はこの、なんとなく漂う懐かしい空気感が松島屋さんの凄さだと思っています。餡子の甘さは程よく抑えられていて、こちらも隠し味程度に塩気を感じます。全体として味はかなりまろやかに仕上げられ。何個でも食べられてしまいます。実際5個を一気に食べてしまい、夕飯が食べられなくなってしまいました。そんな私に「おまえは子供か」と、自分ツッコミを入れる始末です。
さあ、最後の瑞穂さんですが、この店があるのは原宿のど真ん中です。明治通りと表参道の交差点から少し渋谷方面へ歩き、キャットストリート側へ向かう路地へ入る。そして100mほどで、お店を見つけることが出来ます。格子の引き戸にガラスがはまったその外観は、一般的な大福のお店にと比べると、やや敷居が高そうで洗練された様相になっています。瑞穂の豆大福は、もち肌にぽつりぽつりと浮かぶ大きめの赤えんどう豆が、かわいらしい印象を与えます。その豆の香ばしさには、独特の風味があります。餅は微かに塩味を帯び、厚めで腰太。餡子と餅の相性が良く、噛めば噛むほど、香りが高まってきます。きめの細やかなこし餡子は、あまさが抑えられ、あくまで餅を噛む楽しみを与えてくれます。豆大福からは気前良くあっさりと餅に主役を譲った潔さを感じられます。
また最近では、コンビニの大福のレベルも上がってきています。これはとても嬉しいことです。ある一定レベル以上の大福を全国どこでも食べられるようになったということですから。これまでコンビニの大福といえば、ヤマザキの大福が主流でした。あの85円くらいのやつです。しかし、ここ数年はプライベートブランドの豆大福を、冷蔵されたスイーツコーナーで見かけることが多くなりました。中でも秀逸なのがセブンイレブの豆大福。餅の中に練りこまれた十勝産の赤えんどう豆が増量され、舌触りを楽しませてくれます。餡子と餅については、やはり手作りには及ばないものの、「ヤマザキ」を軽く凌ぐレベルには仕上がっています。
大福のことを思うとき、どうしても気になってしまうことがあります。それは、大福の主役は餡子なのか、それとも餅なのかということです。餡子好きの人にとっては、餡子が主役ともいえますし、餅好きの人にとっては餅が主役だともいえます。ただ、どうしても、餡子にスポットライトがあたりがちなことは否めません。実際餡子については、つぶあん派かこしあん派かを主張する人たちがいます。一方、餅については、歯ごたえ派か粘り派のようなことを問う議論を聞いたことがありません。正直私にとっては、つぶ餡かこし餡かは、おいしければどちらでもよいと思っています。それは、たい焼きを頭から食べる派か、しっぽから食べる派かを議論するくらい、小さなことでしかありません。ここでハッキリと餡子至上主義の人たちに言いたい言のは、大福の主役は餅だということです。なぜそういいきれるか?
それは私が、大福主役が餅だということがわかる、決定的な証拠を発見したからです。これによって大福の主役がはっきりしました。まず思い浮かべてください。大福と同じように餡子を包んだ和菓子は他にどのようなものがあるでしょうか? すぐ思い浮かぶものとしては、たい焼き、酒饅頭、くず饅頭、ドラ焼きなどでしょうか。どれも餡子を皮や餅などで包んでいます。その包む素材と形によって、菓子の呼び名が変化するのです。たい焼きは、タイのかたちをした小麦粉の皮で餡を包むからたい焼きと呼ばれ、くず饅頭は餡子を葛で包んでいるから葛饅頭と呼ばれます。
つまり、大福が大福と呼ばれる所以は餅の側にあるのです。餡子ではありません。ということは、逆に言うと中身の餡子が小豆からイチゴになってもイチゴ大福ですし、栗になっても栗大福と呼ばれます。そういうことからすると、必ずしも小豆の餡子でなくてもいいということがわかります。つまり大福のジャンルからはみ出すことはないのです。ここからさらに、餅の搗き方や、米の種類、香り、歯ごたえについてつらつらと書きたいところですが、マニアックな話になってしまうのでこの辺で、餅の話は切り上げようと思います。
大福の楽しみ方は音楽を聴くことと似ています。その味わいは一種のオーケストラ演奏のようなものです。大福のあの白い小さな体を目の前にすると、私の心はふっと静まりかえります。あたかも最初の指揮棒が振られる前の静まり返ったオーケストラのホールのように。そして、指揮棒を構えるかのように、大福に手を伸ばし口元へ運びます。そして指揮者の最初の一振りにあわせ大福を口へ入れる。フルートのソロのような静かな片栗粉の味が味覚を刺激し、かすかな塩気が伝わります。そこからティンパニーのような、弾力のある餅の感触が下をくすぐり、餅を噛み切るとバイオリンがホールに響き渡るように、一気に餡子の甘さが口内に広がっていきます。
口の中では、小豆粒たちの多重演奏が始まり、そこへ腰のある餅の触感が一定の間隔で加わってきて、しばらくの間餡子と餅の協演が続きます。やがて餡子の甘みが徐々に飲み込まれていくと、代わりに喉元を通りすぎたあたりから、青みを帯びた小豆本来の香りが、にわかに鼻空へ抜けていきます。その後舌の上に残った餅の感触が徐々にフェードアウトしながら、もみ殻のような軽やかで懐かしい香りを残して去っていくのです。大福を食べる時は、目をつむって味わうのがおすすめします。するとあなたにしか聞こえない音が、必ず聞こえてくるはずです。
私がなぜこれほどまでに大福のことを毎日考えるのか。それは大福が私を幸せな気持ちにしてくれるからです。好きな人のことを思う時、わが子の笑顔を思うとき、愛情あふれる妻を思う時、かわいい孫を思う時、人は幸せな気持ちになります。つまり大福は愛とイコールなのです。昔から人間は幸せを追い求めてきました。お金を手に入れて幸せになれると思えば富を求めます。結婚して幸せになれると思えばパートナを求めますし、物が充足すれば幸せになれる気がすれば、欲しいものを買い求めます。
でも結局それらは、水の泡のように消えてしまう幻想だったと、いつか気づく時がきます。どこかにいるはずの青い鳥を追い求めてみても、結局どこにも見つからなかったことを、チルチルとミチルが証明してくれました。実は青い鳥は案外近くにいるものです。けっこう日常の片隅に隠れていたります。大福は私にとって日常の片隅に隠れている青い鳥なのでした。