私はカレーになりたかった

「すみません」という声のした方へ顔を上げると、ボタボタと床にカレーがたれるのが見えました。シェフが大皿に盛られたカレーを両手で持ち、こちらへ、そーっ、そーっと歩いてきます。

もう、明らかにカレーを盛り過ぎの状態です。そんなに盛ったら、そりゃこぼれますって旦那。それに、そのこぼれないようにして歩いてくる様は、シェフというより給食のカレーを盛りすぎて必死でこぼれないようにして歩く小学生のようです。そして、小学生歩きのシェフが静かにテーブルに置いた皿を見てさらに驚きました。「え? これって、こぼれる前提で盛ってきたの」と、私は心の中でつぶやきます。

その皿は、ルウが滴ることを想定してか、2枚重ねになっていたのです。その勇猛果敢ともいえるサービスをしてくれたのは、京都の四条にあるイグレックヨシキカレー。ヨシキはわかるけど、イグレックって旦那……。それにしても、床に垂れたカレーは拭かないのですね。拭かなくていいのですね。そうですか。

最近、カレー好きを自称している私は、四条周辺でカレーの食べられる店を探していました。この日は、出張で大阪と京都の客先をまわり、仕事が終わったのが17時頃。食べログでこの店をみつけ、古いアパートを改装したような建物の2階にある店に入った時、まだ誰もお客さんがいませんでした。普段は夫婦で切り盛りをしているようなのですが、この日は時間が早かったせいか、店にいたのはシェフひとり。必然的に何気ない会話が始まります。70歳前後のシェフは、もともとフランス料理のシェフをしていたそうです。65歳になったのを境に、フラン料理をやめ洋風のカレー屋をオープンさせたとのこと。

フランス料理をやるには体力的に厳しくなったと語っていました。それから話題は、まだスタートしたばかりの2017年衆院選へ移りました。カレーを作りながら彼は、小池さんについてあれこれと、ニュースや東京から来たお客さんからの情報をもとに、持論を展開していました。お腹がぺこぺこの私は、とりあえず、適当に話をあわせます。そんな私の対応が気に入られてしまったのか。別に大盛りを頼んだわけではないのですが、文字通り滴るほどの大盛りカレーを作って頂いたのです。どうやら私はシェフに、大盛りにしたら喜ばれるだろうと判断されてしまったようです。

実は私。告白しますと、今はカレー好きの私も子どものころカレーライスが嫌いでした。なぜかと聞かれるとそうですね……。あっ! そう言えば、我が家特有の大きな玉ねぎの具が苦手だったように思います。
ちなみに子どもの味覚は大人の3倍くらい敏感だといいます。舌には味を感じる味蕾(みらい)というセンサーがあって、小さな子どもほどその味蕾が多く、大人になるにつれ味蕾が減って来るそうです。子供に好き嫌いが多いのは、味を敏感に感じすぎて、苦味や渋み、野菜の青臭さなどを、不味いと感じてしまうからでしょう。

話を我が家のカレーへ戻しますと、なぜ母の里江が、あれほどまでに、玉ねぎをザクっと大きく切っていたのかは謎のままです。セオリーどおりなら、熱したフライパンにオリーブオイルを入れて、みじん切りにした大量の玉ねぎを投入し、強火でよくかき混ぜながらアメ色になるまで炒めるはずなのですが。当時、味蕾センサーが超敏感だった子供の私には、母(里江)が作る大きな玉ねぎの入りのカレーは、その玉ねぎの香りによって、受け入れがたいものでした。

子どのころのカレーの記憶と言って思い出すのは、ボンカレーとバーモントカレーの宣伝です。ボンカレーといえば、着物を着た松山容子さん、それから世界の王貞治さんでした。それからバーモントカレーといえば、リンゴとハチミツツと西条秀樹さんです。なんだか「部屋とワイシャツと私」のようでもあります。子供の頃は、あのCMに出てくる、カットされたリンゴに、ハチミツがかかる映像が、カレーのイメージとはかけ離れてすぎていて、何の関係があるのかサッパリわかりませんでした。隠し味にリンゴとハチミツが使われていることを理解したのは、大人になってからです。今のバーモントカレーのCMには、Hey! Say! JUMPが出ているようですね。そして、今でも変わらず、カットされたリンゴにハチミツがかかる映像が流れています。

そんな、カレー嫌いな私が、大人になるにつれて、舌が鈍感になったためか、カレーのことをどんどん好きになっていきました。受け入れられるようになったと言うべきでしょうか。そして40代に突入しから、髪の毛の減少と競うかのように、味蕾も加速度的に失われているようで、ますますカレー好きが進行してしいます。出張で地方へ行く機会があるときは、必ずと言っていいほどご当地のカレー屋を探すようになりました。こんなことを言うと「いやいや、ご当地へいったら、ご当地グルメでしょ」って、言う人があるかもしれません。確かにまったく的を射た意見です。

しかし、インターネットと流通の発達したこのご時勢、あらゆる食べものが人々の胃袋を満たすため、東京へと集められてきます。だから東京に住んでいれば、大抵のおいしいものは、ここで食べることが出来てしまうのも事実。むしろ東京の方が、美味しいものが多いかもしれません。そうなると、私にとっては旅先でご当地グルメを食べる必要性はあまりないのです。逆に日本の国民食といっても過言ではない、全国で食べられるカレーにこそ、地域による違いを楽しむ必要性があるのだと思っているくらいです。

ところで皆さん、全国のカレー屋さんは、どのくらいあるか知っていますか? タウンページの登録数でみると、全国に5401件あるそうです。中でもカレーハウスcoco壱番屋は、2013年にその店舗数で、ギネスから世界1位と認定されました。また、人口10万人当たりの店舗数では、どの都道府県が一番か想像できますか? 実は東京は3位なのです。10万人あたりで7.81軒だそうです。つづいて2位は北海道の8.86軒。そして1位はなんと石川県の9.29軒でした。

石川県? 何故……。それから、さらに調べてみたところ、全国でカレールウの購入量が多いのは、3位が石川県で2018グラム。2位が鳥取県で、2077グラム。そして1位が石川県で2117グラムだそうです。実はベスト10に入っている都道府県のうち、9つが日本海側の都道府県でした。日本海とカレールウの購入に一体どのような相関関係があるのか、さらに調べてみたいところです。ちなみに、長年購入量2位に甘んじている鳥取県は、全国1位を目指し「鳥取カレーくらぶ」なるものを立ち上げ、虎視眈々と1位の座を狙っているのだとか。それから、生協さんが2013年に調べたところ、小学生の学校給食の人気メニューは、カレーライスがダントツという結果が出ました。カレーが嫌いだった私と比べると、どうやら今の子供はませているようです。

このように鑑みると、カレーは私だけではなく、多くの国民から支持を受けています。今の与党の支持率よりだいぶ高いということは簡単に想像がつきます。この支持率の高さは一体どこから来るのか? それは、カレーが持つ全てを受け入れるかのような包容力に違いありません。牛肉、豚肉、鶏肉、魚介類なんでも受け入れてくれます。野菜だって、おそらく世界中のどんな野菜がきても大丈夫です。カレーというスパイスの泉に入ってしまうと、全てのものが平和的に調和され、一つのカレーとしてまとまりをみせます。インドからやってきたカレーは、まるでインド独立の父と呼ばれるガンディーのようであり、悟りを開いた仏陀のような大きさがあるのです。

カレーの包容力とは、人間でいうところの器として置き換えられるかもしれません。そして器の大きさとは、人が認識できている世界の広さと言えます。器の小さな私は、ついつい大きな器に成ることに対して憧れを抱いてしまいます。もちろん、器が大きければいいわけでも、偉いわけでもありませんが。子どもは基本的に利己的です。自分を中心に物事を考えます。だから自分の言動が相手にどのように影響し、どう受け取られるかという、相手から見た視点を持つことが、なかなか難しい。

これはまだ、ライスすらないカレールウのようなものです。それが高校、大学を経て社会人になると、学校や社会の中で人と接する機会が増えます。そうすると友達や先生、会社の上司などとの関係性の中で、相手がどう感じるか、どのように思うのかを察することが出来るようになってきます。これは認識できる世界が広がったということです。つまり少しずつ様々な具を受け入れる包容力がついてきて、やっとカレーライスになれた段階です。COCO壱でいうとポークカレー(ライス)とか、ビーフカレー(ライス)といったところでしょうか。そして、そこからの成人の成長は、自分で「こんなカレーになりたい!」と意識を持たなければ、成長することがあまりなく、自然とさらに美味しいカレーになることは難しいそうです。

私はインドカレーが好きですが、特に世田谷上町にある「スパイスマジック」の北インドカレーがすきです。ちなみに下北沢にあるスープカレーの「マジックスパイス」ではありません。スパイスマジックのカレーは、玉ねぎとカシューナッツをベースにして、様々なスパイスが混ざり合い、もはや何が入っているかわからないけど、とにかく美味しいのです。やっぱり、人間も様々な経験を乗り越えてくると、器も広がりますし独特の味わいが出てくるのではないでしょうか。もし私がカレーなら「何が入っているカレーなのかサッパリわからないし、味も独特だけど、私結構嫌いじゃないかも」と言われてみたい。気づけば、カレーの話を書いていたつもりが、ずいぶん遠くまで来てしまいました。どうやら私は美味しいカレーになりたかったようです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする