受け入れると、緊張は和らぐ。

「ただ怖くて逃げました、私の敵は私です」。本当にそうでした。でもそれがわかった時、敵は消えていました。そして、今日集めたセミナーアンケートには、「もっと詳しく話を聞きたい。営業の訪問を希望する」のところに沢山チェックが入っていました。

おとといのこと、私は、翌日にあるセミナー登壇用資料を自宅で作成していました。私の耳に、その歌がツカツカと入ってきて、心にペタッと張りつきました。さっきまで、YouTubeで天才バカボンの歌を聞いていました。「西から登ったお日様が、東へ沈む〜」って具合に。それから、ぐっさんのキレキレのコントを観て爆笑したあとに、YouTubeはそのままになっていました。そこからしばらくの間、資料作成に没頭します。その、しゃがれた声は、私の意識の外側で歌い始めました。はじめは、それが中島みゆきのカバーだとは気づきませんでした。でも彼が「ただ怖くて逃げました、私の敵は私です。ファイト!」とサビを歌い始めたとき、ああ、中島みゆきの曲だったんだと気づいたのです。

白状しますが、私は人前で話をするのがとても怖い人間です。物心ついた時から、人前に出るのが苦手でした。人前でスピーチをしなければならない時は、過度に緊張して上手く喋れません。縮こまった喉に言葉が引っかかってしまうのです。その夜も翌日に「働き方改革」に関すセミナーを控え、不安な状態でした。自社セミナーでの登壇は1年以上ぶりだったからです。このブランクが私の不安を大きくしていました。この時、資料の作成をしながら、ふとデスクの左端に置かれている本の存在に気づきます。それは、数日前から読み始めた本でした。なんとなく気になって無意識にページを開いて見ました。すると、そこに一文を見つけます。実は、このたった一文が、人前で話をする恐怖から、私を開放てくれることになるのです。さて、まず私がどれ程人前が怖いのか、お話ししましょう。                           

小学校の頃には、こんなことがありました。2年生のときです。当時私は習い事を複数かかえていました。書道、そろばん、ピアノ。昭和の習い事といえばこの3つです。もちろん、習い始めたのは自分の意思ではありません。すべて母親が勝手に決めてきました。ピアノの教室は毎週日曜日の9時から通のスタートでした。でもピアノっていうのは田舎の男子にとって、微妙なポジションなのです。そんなのは女のやるもんだ的な感じで。だから、友達からからかわれる対象となりやすい習い事なのです。だから私は辞めたくて仕方がありませんでした。それを母親へ伝えると「いやなら全部やめちゃっていいよ」と言われるのです。でもそれは「やめちゃいけませんよ」ということなのです。

今ならそれは、子供に色々学ばせてあげたいという親の自我だということがわかります。そして辞めていいと言いつつ、実際はなんの選択肢をあたえていないのです。でも小学生の子供はそんなことに気づきません。むしろ子供は親の期待にこたえようと頑張るのです。ああ健気な私です。

この様な時、こどもの心の中ではとてつもない葛藤が起こります。親から表面的には「やめていい」というOKサインが出ているのですが、本心では「やめてはいけない」というNOサインが出いるのです。いわゆる板ばさみ状態。心理学では、これをダブルバインドと呼びます。これは、どっちを選んでも痛い状態だということがわかりますか? そして、このダブルバインドの状態で子供はどちらを選ぶでしょう? 実は殆どの子供は自分を犠牲にしてでも、親の本心を選ぶのです。なぜか? それは親から愛されるためです。そして幼い子供にとって、親の愛を得られない状態というのはどういうことを意味するのか? 自分の力で生きることが難しい幼子にとっては、生存の危機に匹敵るすくらいの意味を持つことなのです。つまり、親の期待に背くことは、通常幼い子供にとって、とてもとても恐ろしいことなのです。そして、これがある問題を生み出します。その説明はまた後で。

さて、私のピアノの話に戻します。自分の意思で始めたわけでもなく、熱心に練習するでもなく、そんな私が上達するわけはありません。しかし、私の上達とは関係なく、それはやってきました。ピアノの発表会です。発表会当日。確かあれは、町民会館の一室だったと思います。私の心臓は、50mを全力疾走した後の様にバクバクしています。前の演奏者が終わり遂に私の番がやってきました。壇上にあがったところまでは覚えています。でもその後の記憶はあまりありません。演奏の内容のことで、親からとやかく言われたことはありません。ただ、それよりも「期待」という目に見えない、そして悪意のない親からのプレッシャー。これによって作り出される、上手くやらなけでばいけない状況が、子供の私に過度な緊張を強いるのでした。

一般的な家庭であれば、殆どの家で長男は長男らしく振舞うことを期待されます。長男らしくとは具体的にどういうことかというと、しっかりしている、ちゃんとできる、人の面倒をみれる、我慢できるなどです。長男の私も、そのような親の暗黙の期待を受け育ってきました。自分で言うのもなんですが結構素直です。でも親から見て素直だからといって、健全に育っているかと、そうとも限らないのです。なぜなら、ダブルバインドという葛藤を心に溜め込んでいくからです。そして、このダブルバインドは、後天的な性格の形成に影響を与えるビリーフなるものを作り出します。それは次のようなものです。

例えば「ちゃんとできない自分には価値がない」とか「頑張れない自分には価値がない」それから「しっかりしていない自分には価値がない」というような信念に近い思い込みです。実は、長男や長女は人前で緊張しやすい人が多いのはそのためなのです。あ、ちなみにこのビリーフは、殆どの全ての人が、様々な種類のものを、複数持っていることがわかっています。さて、そんな長男で緊張しいな私が、こんなことを引き受けるとは……

「次の315日のセミナーだけど、誰か登壇したい人いる?」と、上司が営業部のメンバーに向かって聞いたのは10日ほど前のことです。私は周りを見まわしました。誰も手を挙げません。誰かやってくれないかな的な雰囲気がただよっています。んーまずい。この状況は。うちの会社では、新規顧客の開拓を目的に、月に1回程度定期的なセミナーを開催しています。実は私も1年くらい前までは、たまに登壇していました。一番初めは死ぬほど緊張しましたが、人間慣れてくると、それほど緊張もしなくなります。しかし、ここ1年くらいは社歴の浅いメンバーに任せたきり、そのセミナー講師からは解放されていたのです。今回は「働き方改革」という、誰もやったことのない切り口のテーマだったので、みなさん二の足を踏んでいるようです。そうすると、やっぱりここは、あっしがやらねば的な気持ちになってしまうのが、長男の性なのでしょうか。ちょっと余裕かました雰囲気で私は言いました。「じゃあ、俺いきますよ」と。ああーまずい。言っちゃったよ、おい。どうしよう……。後悔先に立たずです。すでに、鳩尾の奥の方に、締め付けられるような感覚が芽生え始めていました。

やると言ってしまったものは仕方がありません。やりましょう。つーわけでまずは準備です。緊張対策の基本は徹底的な準備から始まります。私は知っています。どれだけ準備をやっても、本番は緊張するのです。そこからはのがれられない。それでも、準備をしないことには舞台に上がれないのです。こういうとき、ポジティブシンキングとか、成功イメージとかは殆どやくに立たないことを経験上わかっています。セミナーの持ち時間は50分間。会社のミーティングルームで一人ぶつぶつ言いながら、トークの練習を繰り返す私。誰かに見られたら怪しい人です。

セミナー前日の夜、私は自宅で準備を進めていました。そこで、デスクの上にあった本に気づきます。ページを開くと、ある一文が目に飛び込んできました。そこにはこう書かれていました。「自分のイメージを維持しようとしなければ、あなたが拒絶する思考の全てが問題にならない」。あっ、そうか! そう言うことか。ちゃんとできている自分のイメージを捨てればいいんだ。そうすれば失敗することが問題にならなくなる! もう自分の失敗イメージから目を背けるのをやよう。それは決してネガティブシンキングでなどではありません。無理にポジティブになろうとすればするほど、反対のネガティブを強めるだけなのです。

「ファイト! 戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」YouTubeから竹原ピストルが歌うファイトが聞こえてくる。大丈夫。怖くていいんだ。

あと15分でセミナーが始まる。会場前方の左側にある登壇者の席から会場を眺めています。参加者は50人くらいでしょうか。「怖くていいんだ、もっと怖いを感じよう」と自分に話す。心臓がかなりの勢いで走り始めた。「でも、それでいい」。すると、気のせいか緊張が和らいだような気がした。でもまだ、鳩尾のあたりが縮こまっている。「もっと、それを強く感じるんだ」と、恐怖へ意識を集中していく。すると不思議なことに、縮こまる感覚が弱くなってきた。会場へ目を向けよう。参加者一人一人の顔を席から見つめていく。それから「自分が間違えるイメージ」をし始めた。そして間違えても上手く説明ができなくても、なんの問題もないことに気づきました。

私の敵は私です。「間違えることは、失敗なんだ」そんな虚構を作り上げているのは自分でした。

さあ、時間がきた。始めよう。私は席を立ち壇上へ向かった。

ファイト!

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