「しあわせ~って、なんだぁっけ、なんだぁっけ、ポン酢醤油のある家さ~」
1986年、キッコーマンのCMで明石家さんまが、こう歌っていました。
そうなんです。幸せって案外そういうもののような気がします。日常の隅っこに転がっていて、一見すると幸せそうに見えないもの。実はそういうものなのではないかと。
逆に「今、私本当にしあわせ!」って時ありますよね。そんな時は、幸せを感じているようにも思えます。でも、そういう瞬間って、意外と見せかけなのかもしれません。というのは、それは感情の振れ幅によって引き起こされた、錯覚状態だからです。あなたが、幸せを勘違いしてしまっている可能性が高いのは、こんな理由からです。
例えば、あなたのスマホに感情の振れ幅を計測できる、「心のアプリ」なるものがインストールされているとします。その心のアプリを起動すると、中央に「0」、右側に+100、左側に-100までのメモリが見えます。このアプリは、タッチパネルに指を触れていると、感情を読み取ることが出来ます。なんの変哲もない日常の状態は、赤い針が真ん中の0を指しています。そこへ、こんなことが起こります。あなたは今、電車から降りました。すると3万円とクレジットカードが入った財布を落としたことに気づきます。「あっ、まずい!」と、あわてて、駅員さんに報告しますが、当然見つかるかどうかは、わかりません。この時、アプリで自分の感情を計測してみると、針が0より左の方へ-60程傾いていました。しかし、次の日に駅から連絡があり、「あなたの財布を届けてくれた人がいました。ええ、お金は3万円入っています……」と告げられます。するとあなたは「はぁ、よかった」と、ホッとします。ここでもアプリで計測してみると、今度は針が0より右の方へ+5程傾いています。そして、「日本っていい国だなぁ」と、この国に生まれてきたことを思い、幸せな気分になります。ここでの話のポイントは、財布の中身は変わっていないのに、心のバロメーターは、弓の弦を引いて離した時のように、マイナスから一気にプラスへ65動いたということです。そうすると、その振れ幅の大きさ分だけ、自分は幸せだと自分の感情に勘違いをさせられてしまうのです。
ここで、困ることがひとつあります。我々人間はいろいろなことに慣れてしまうということです。同じ体験をしても、その出来事が繰り返されることによって、バロメーターの振れ幅は小さくなっていきます。
例えば、結婚式でのバロメーターはでしょうか? 一生に一度だと思うからこそ感動しますし、とても幸せな気持ちになります。振れ幅がとても大きいです。でも極端な話ですよ、これを毎年やっていたらお金の話を抜きにしても、さすがに3度目、4度目くらいから飽きますよね。すると振れ幅は、小さくなる。そうすると、人って振れ幅を求めて、何かをやろうとし始めます。
私たち人間て、何かが起こってないと幸せを感じられない性なんでしょうね。だから、競いあって勝っては笑い、負けては泣くということを繰り返しているのかもしれません。また、世の中何も起こらない方がいいのがわかっているのに、戦を繰り返してきましたし。それは、競い合いや、争いごとだけではありませんよね。普段の生活の中でも、しょうもないことでケンカを始めたりとか、無意識のうちにいつもDVのパートナーを選んでしまったりだとか。そのようなネガティブなことだけでなく、他にも私達は色々起こします。「今年は、英会話を習いに行こう!」とか「新しいビジネスを立ち上げるぞ!」とか。なんかこう、起こすのがやめられないのでしょう。一種の起こし中毒状態と言ってもいい。こういう状態って、やっぱり勘違いからきていると思うんですよ。心のバロメーターの振れ幅による勘違い。何でもいいから振れ幅がないと、幸せを感じられないという悲しさ。それは例えば、素面の状態が耐えられないから、お酒を飲んで0の状態から、どっちでもいいから針を振りにいくというようなこととちかいのかもしれません。
私最近思うことがあって、本当の幸せは、”何でもないこと“とか、”何も起こらないこと”なのではないのでしょうか? つまり、幸せとはバロメーターが0の状態。そして、究極の幸せは、もうなにも起こらなすぎて困っている状態、つまり“暇”という言葉に置き換えてもいいかもしれせん。ということで、みなさん最近、暇してますか?
そうそう、私の大好きな写真家にソール・ライターが、素敵な言葉を残しています。この人はプロの写真家としては一風変わっていまして、ファッショカメラマンとして経歴の絶頂の時に、ファッション界から姿を消します。その後、彼は近所の市井の人たちを撮り始めたのです。特に雨の日のショーウィンドウや、傘をさした人々を撮影した写真は有名です。その彼の写真とメッセージが編集された『ソール・ライターのすべて』という本の扉に、彼のこんな言葉が書かれています。
「幸せの秘訣は、何も起こらないことだ」
幸せの秘訣は、何も起こらないこと。まさに、それを裏付けるような経験が、私にはあります。私が高校球児だった頃の話です。私は、山梨県でも甲子園を目指す有力校の野球部に所属していました。そこでは、主力メンバーとして、一応周囲から期待もされている存在でした。そんな私が高校2年生の秋を迎えた頃、事故は起こったのです。その日は、体育の授業で柔道の実技練習をしていました。この時、私は同じ野球部の佐藤君(仮名)と組んで、段取りをしていたのです。私が背負い投げの体勢に入り、佐藤君を投げようとした瞬間、相手が投げられまいと、こらえました。しかし、私がさらに強引に投げをうとうとした時、私の腰が悲鳴をあげました。
私は「あっ! やってしまった」と思うと同時に、寒いものが背筋を駆け抜けます。そして、痛みで畳に崩れ落ちました。少しでも体を動かそうとすると、激痛が腰を襲います。冷や汗が背中を流れていきます。これが世に聞くギックリ腰かと、その時は思いました。その時は、ただのギックリ腰だと思っていたのですが、事は考えていたよりずっと重大でした。その後、病院で精密検査を受け診断結果を告げられた時のことは、今でも覚えています。
診察室で、明かりに移しだされたレントゲン写真見ながら先生が説明します。ドラマでよくあるシーンです。「腰椎のこの部分が折れていますね。これは腰椎分離症といって…云々。要するに完治して、普通に運動が出来るまでには半年以上はかかるでしょう。だから夏までにプレーできるようになるのは……」。
突然、目の前の世界から色が消えてなくなりました。地獄にけり落とされたような、世界の激変ぶりに体から力が抜けていきます。先生の言葉は、夏の甲子園を目指す、高校球児にとってガンの宣告と同じようなものでした。その時の私を、ちび丸子ちゃん風に描くのなら、顔面だけでなく全身に斜線が入っていたことでしょう。その後、自宅へどのように帰ったのかは、記憶にありません。
そして、運動どころか、歩くこともままならない日々が、数ヶ月続いたのです。それまでは、きつい練習が嫌で仕方がなく、どうやったら上手に練習をサボれるか? ということばかり考えていましたが、歩くことすらままならない状態になったことで、物事の見え方が一変します。部員たちが練習しているのを、ただ眺めている日々は、高校生活の中で最もつらい時間となしました。その時、こう感じたのを覚えています。「あぁ、普通に歩けて、普通に生活が出来ることって、幸せだったんだなぁ」と。
でも、何も起こらないことは幸せだというと、一方では「そんな、何も起こらない人生のどこが面白いんだ!」と、青筋を立てながら口角泡を飛ばす方がいらっしゃいます。確かに、そうなんですよ。矛盾していますが、私もそう思います。アクシデントを含めて、何かあった方が、後々面白い。そこには、何か起こるのを求めている自分がいるのも否定できません。ここ最近、この「起こす」とは逆の「起こさない」ブームも来ているようです。それは「マインドフルネス」のことです。ここ数年、なんとなく耳にしたり、見にする機会が増えてきているのは、お気づきではないでしょうか。
「マインドフルネスってなに?」って思ったあなたに簡単に説明します。一言で言うと
“今ここ”に集中している状態です。もう少し説明を加えると、普段頭の中でごちゃごちゃ考えている思考の世界から、「今」感じたり、聞こえたりしている、五感の世界へ心(意識)を集中させることです。それによって、心から思考を締め出していくことができます。そう言う私はできませんが……。それで、何がいいのかというと、ストレスが軽減したり、集中力を高められたり、記憶力がましたり、といった効果が見込めるようです。具体的には、瞑想するのが一般的です。頭の中で繰り返されている不安、恐れ、怒り、後悔などの思考に気づくことから始まります。「あ、この間なくした財布のことを、くよくよ考えてた」とか、「あ、今、来月の支払いのこと心配してた」とか。
マインドフルネスって、もともとインドのヨガとか、禅の瞑想などに興味をもった欧米諸国の人達が、自国の人に受け入れられやすいよう、マインドフルネスと呼び名をつけた総称です。それが逆輸入されて、ブームになっているのです。「今度、座禅組みましょう」と言われたら断る理由を探しちゃいますが、「マインドフルネス瞑想しましょう」と言われると、「いいですね」と即答してしまいそうです。
それで、話を心のアプリまで戻すと、人間が常に「起こしたい」のは、それが思考の産物だからで、つまり思考をやめるのが難しいからなのです。思考しなければ、感情も起こらないので、バロメーターは「0」のままです。マインドフルネス風にいうと、「今」に集中することで、思考によって生み出される心の振れ幅を少なくしていきましょうといったところでしょうか。
「しあわせ~って、なんだぁっけ、なんだぁっけ、ポン酢醤油のある家さ~」とさんまさんも歌っていますが、幸せって「0」の周辺にあるから、気づきにくいんですよ。
でも、それって、家族でつつく、夕食の鍋の周辺に、隠れていたりすのだと思います。
記事:中野篤史